芥川賞作家・川上弘美さんの『溺レる』は、1999年に文藝春秋から刊行された短編集です。2000年の女流文学賞と伊藤整文学賞の受賞作でもあります。
この短篇集には、表題作の『溺レる』を合わせて8つの短篇小説がおさめられており、そのすべてが恋愛小説になっています。
ただ、恋愛小説と言っても、川上弘美作品を一度でも読んだことのある人なら分かると思いますが、いわゆる胸キュンの「恋愛小説」とは全然わけが違います。
川上弘美の恋愛小説は、一般的な惚れた腫れたの物語とは一線を画した、人間同士の愛の営みそのものが描かれているのです。
川上弘美『溺レる』あらすじ
主人公のコマキさんは恋人のモウリさんと一緒に逃げています。
何から逃げているのか、コマキさんには理解できていませんが、とにかくモウリさんに誘われるがまま、コマキさんは一緒に逃げてしまったのでした。
コマキさんが「何から逃げてるの?」と聞けば、モウリさんは「リフジンなものからはね、逃げなければいけませんよ」と返します。
「相愛の男女がね、手に手をとって逃げるっていうことですよ」
モウリさんと相愛になったコマキさんは、それでも、モウリさんの説明には納得いかないまま、全てを捨てて逃げてしまいます。
モウリさんも勿論、コマキさんよりも沢山のものを捨てて、逃げていたのでした。
手に手をとって駆け落ちしたは良いが、金はなく、住む場所もありません。ある時は南に行くトラックに拾われ、ある時は新聞配達所で住み込みで働きながら、二人はなんとかその日暮らしの生活を続けます。
しかし、不器用なモウリさんに新聞配達は難しく、次第に二人の気持ちは沈んでいくことになるのです。
「気がふさぐの?」と聞くと、モウリさんはまたため息をついて、
「自転車うまくならないなあ」と答えた。「この仕事、向いてないんじゃないかなあ」
「向いてるも向いてないも」と笑うと、モウリさんは突然のしかかってきて、
「アイヨクにオボレよう」と言った。「今すぐアイヨクにオボレよう」
「もう昼近いよ」答えると、泣きそうな顔になって、
「コマキさんが好きでしょうがないんだ」と言いながら、胸やくびにやたら接吻を降らせた。それから、急いで、アイヨクにオボレた。
新聞配達所でいくらか金を貯めると、ふたたび逃げはじめてしまった二人。
逃げ続けるうちに、少しずつ上の空になる時間が増えていくモウリさんを見て、「どうしてモウリさんについてきてしまったんだろう」と、自分を恨めしく思うコマキさん。
なんだか情けなくなって「モウリさんは、わたしが好きなの?」とたずねれば、モウリさんは湿った声で「コマキさんは少しばかですね」と言うのでした。
「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」
「帰れないかな」
「帰れないなぼくは」
「それじゃ、帰らなければいい」
「君は帰るの」
「帰らない」
モウリさんといつまでも一緒に逃げるの。
解説|愛の逃避行はつづく
モウリさんはきっと既婚者で、コマキさんは独身で、偶然の出会いが二人の歯車をくるわせたのであろうというのは最初の数行でなんとなく分かります。
恋愛ってそもそも逃避行なので、愛し合うだけなら逃げる必要は無い。逃げなくてはいけないのは、二人の愛を咎める存在がそばにいるからです。
遠くへ逃げて、思う存分アイヨクにオボレたい。
モウリさんは最初から逃げ出したかった人で、そこにコマキさんがあらわれたから、「アイヨクにオボレよがしに」一緒に逃げようと誘ってしまった。
でも、モウリさんの本当の目的はコマキさんとのアイヨクではなかったから、一緒に逃げていても二人はちっとも幸せになれないのです。
一方のコマキさんは、モウリさんの愛を疑いながらも「もっとモウリさんにオボレたい」と願っています。
オボレる、とは
「オボレる」って、どういう状態でしょうか。
すごく大好きとか、愛してるとか、そういうのではなく、オボレる。「好きでしょうがないんだ」とモウリさんは言っていますが、好きでしょうがない状態がオボレている、ということでも無いような気がします。
「今すぐアイヨクにオボレよう」
好きな男性にそんなことを言われたら、女性はその言葉に溺れてしまうでしょう。
オボレるとは、「心をまるごと持っていかれてしまう」ということなのかも知れません。
それまでの自分の価値観とか全部ひっくり返して、自分のすべてを捧げてしまいたいような、そんな感覚であるように思います。
もしも愛が消えても
一緒に逃げていながらも二人の心には決定的な溝があるわけですが、これは「保護するもの」と「保護されるもの」の心境の違いです。
逃げた責任を背負いきれず、見知らぬ土地での生き辛さに疲弊しているモウリさんと、モウリさんと生きるその瞬間だけを見つめて、胸をいっぱいにしているコマキさん。
二人の逃避行がいつしかあっけなく終わってしまったとしても、アイヨクにオボレたという記憶が、いつまでも二人を繋ぎつづけるのです。
そのほかの短篇も傑作ばかり
この短編集には表題作『溺レる』のほかにも読み応えのある物語が7つ収録されています。
短いながらも素晴らしい小説ばかりなので、普段あまり小説を読まない人にもオススメですよ。
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